農と食の共存する空間について 渡部忠世(農学者)

アグリ(農)

農と食の共存する空間について 渡部忠世(農学者)

京都学派。京都大学を牙城に、東京大学の西洋偏重主義に対抗するかのように東洋の伝統も重んじ、学問を切り開いた知識人集団だ。渡部さんも京都学派のひとりだろう。長く京大に在籍し、大きな業績を挙げ、定年後は、日本の農業を見つめ、提言を繰り返してきた

文=藍野裕之/写真=依田恭司郎

稲作の起源を探して

渡部さんは長く京都市に暮らしてきたが、生まれは神奈川県の三浦半島。葉山からそう遠くはない場所だったという。将来を決めようという大事な時期は戦争の只中だった。徴兵もされた。幸いにも戦地には赴くことなく終戦を迎えたというが、兄のほか何人もの親友を戦争で失った。

終戦を迎え、宇都宮高等農林学校(現在の宇都宮大学農学部)を卒業したが、まだ勉強したいと思ったという。そして京都大学農学部に入り直した。終戦の翌年で、学制も新制に移行する前で、まだ京都帝国大学だった。空腹さえ満たされれば幸い、という時代に少年期から青春期の入口までをすごしたため、「今でも、とくにうまいものや珍味などへの積極的な欲求や、とくに好物というものへの強い執着は少ない」と著書『百年の食』(小学館)には記している。また、そんな食べるのに苦労してきた経験が、食物をつくる農への関心につながったのだとも。

戦後しばらくたつと、京大は“探検大学”の異名をとるようになった。文献派に対抗するかのごとく、まだ海外調査など困難だったのにもかかわらず、大きなテーマを掲げ、資金を集め、外務省と折衝し、次々に海外調査を行っていったのだ。渡部さんが挑んだテーマは、稲作の起源。いったい、日本を含めたアジアに広がる稲作は、どこで始まり、どのような伝播の道をたどったのだろうか。これをできるかぎり自分で足を運んで実証的にたどろう。途方もない命題と計画だが、こうした壮大なテーマを掲げて挑むのが、探検大学の異名を支えた戦後の京都学派の学風だったのだ。



渡部さんは、インド、東南アジア諸国を始め、かつて独立王国だったアッサムや中国南部、さらにはブータンと、アジアを広範囲に歩いた。遺跡から出るような炭化した稲ではなく、品種の分かるぐらいに形のある古い稲。これを手掛かりにした。そんなもの、どこにあるのか? と思わせるが、あったのだ。寺院建造の際に使われてきた煉瓦の中である。

「東南アジア各地では、煉瓦に強度を持たせるために、稲籾を入れて焼くんです。ですから、稲の研究者でありながら、煉瓦を探してぶらぶら歩いたんですね。楽しかったな」
と渡部さんは笑う。“ぶらぶら”ではなかったこと想像できる。だが、たとえ大変な旅でも、現地の人びととの濃密な交流があっただろうし、大きな謎に近付いていく興奮もあったのだろう。だからこそ、楽しい記憶となっているのに違いない。

こうして渡部さんは、実際に研究を開始して15年後に『稲の道』(NHKブックス)を著す。そこで、インドのアッサムから中国の雲南省が示された。この地域の陸稲栽培が稲作の起源だというのだ。これが、現在も色褪せない渡部仮説「アッサム・雲南説」である。

「その後、江南、中国の揚子江中流という説が出ましたが、わたしは懐疑的です。現地を歩いてみましたが、郷愁を誘わないです。それも大きな理由ですね。田んぼは広大。しかし稲作農村の風景ではないんですね。東南アジアやアッサム、さらにブータンといった地域の稲作地帯は、私たち日本人の郷愁を誘う風景ですよ。揚子江とはまったく違います。

こういうことをいいますと物議をかもしますが、北京政府としては私の仮説を歓迎したくないんです。漢民族以外の少数民族が、稲のような人類史を語るうえで重要な作物の最初に栽培したというふうには考えたくないのでしょう。反対に雲南では、私の仮説は有名なんです(笑)。何度か雲南大学に呼ばれて講演をしましたが、大きな歓声で迎えてくれました」



理想の空間 “郷”にたどり着く

京大は1987年3月末日をもって停年退官した。ひとつ任を終えてから30年近い歳月が流れた。この間に渡部さんは、いくつもの著作をものにした。多くは、日本の食と農に関する提言だ。提言といっても、“上から目線”はない。どの著作からも、化学肥料や農薬を奨励してきた戦後日本の農政、農業を軽視してきた戦後思想を顧みて、無力だった自身を強烈に反省している姿が垣間見える。

「農学栄えて、農業滅ぶ」
これは、農商務大臣も務めた明治の元勲、榎本武揚とともに現在の東京農業大学を創設し、初代学長となった横井時敬が残した言葉だ。農学を学ぶものへの警句、戒め。農学は農業の繁栄のためにこそある、という裏返しの言葉である。渡部さんの京大停年後の著作には、横井の言葉を思い出させるところが端々にある。

82歳のときの著書『百年の食』には、次のように記されている。

「今から二十年前に、老後のことをしっかり考えずに、本気で農村に住む決断をしなかったことを私は後悔する。まだ足腰が丈夫であった六十代であったならば……できる範囲で、野菜でも稲でもいいが、小さな田畑で育てることは可能だったであろう」

渡部さんは、京大退官後、放送大学の教授を務めた。学生が目の前におらず、日頃の講義はテレビカメラに向かって行なうという方式に戸惑ったそうだが、受講する学生たちは年齢層も幅広く向学心旺盛で、年に数回、いっしょに農村を訪ねたという。

また、研究者仲間と農耕文化研究振興会なる組織を立ち上げ、一般からも会員を募った。そして、東南アジア、南アジア、オセアニア島嶼などでの農業の現状を調査していった。自身で農に手を染めずにきたことへの悔いは残ったが、農民の声を広く聞き、著作によって見聞を多くの人へ伝えたのだ。



だが、著作は『百年の食』の後は8年も出ていない。この間に社会情勢も、農や食への私たちの意識もずいぶん変わったのではないか。90歳の今でも時折ひとり旅に出る渡部さんが、それに気付いていないわけはなく、経験に裏打ちされた独自の見解を持っているはずである。そんな予測は、もちろん的中した。

「長い間、日本の食物自給率の低さが問題になってきましたね。食物自給率は上げなくてはいけませんが、これを国全体で考えるから途方に暮れるわけです。もっと小さな単位で考え、取り組む方策を考えるべきではないでしょうか。その小さな単位を、私は“郷”と考えているんです。いまの都道府県より小さなコミュニティです。たとえば京都府なら、3つぐらいに分けられるのではないでしょうか。郷の中で地産地消を進めていく運動は食物自給率を高める運動にほかなりません。郷とは生産者と消費者が共存しているコミュニティだと考えています」

専業農家と兼業農家という分け方が常識化しているが、日本では長く農業は他の職と兼業するのが一般的だったのだそうだ。日本だけではない。アジア各地の稲作地帯では、どこでも兼業農家だという。誰もが消費者であると同時に生産者である。これが渡部さんの考える郷での人間のあり方だ。

「郷はデサコタを思っています。インドネシア語で、デサは村、コタは町。ところが、この国ではデサであってコタであり、コタであってデサでもあるという空間が多いんです。じつは稲作地帯は日本も含め、元来こうした空間づくりをしてきた。職人、役人、僧侶も農繁期には稲作を手伝ってきましたからね。これを郷として日本につくり直そうというのが私の考えです」

こうして前作から8年後の考えは聞けたのだが、これをまとめた著作も読みたいものである。出版の予定はないかと聞くと、草稿はすでにあるのだが、文章がよくならないのだそうだ。

「年をとりました。このところ本当に文章が書けなくなりました」
 本当に悔しそうだった。
「もしよかったら、草稿を元に何回かに分けてお話ししますので、みなさんでそれをまとめてくださいませんか」
 私たちは「はい」と応じた。

「郷という考え方は、東京、大阪などの大都市には適応させられませんね。食と農の共存が難しい大都市をどうしたらいいのか、私にはわかりません。大都市は、郷の住人以上に農産物の収穫がある地域から分けてもらうとか、そういうことを考えていかないとダメでしょうね」

と渡部さん。これはあくまでも日本全体で食物自給率を上げることを念頭に置いての発言である。食物だけでなく電気などのエネルギーも地方に依存する大都市。渡部さんの大都市への眼差しは厳しいが、他者に依存していくにも健全な依存があるのではないか。京都の知性は、これから私たちが質問を繰り返していくと、この難問にも答えを出してくれるかもしれない。


Profile 渡部忠世
1924年神奈川県生まれ。旧制横須賀中学を卒業後は東京のふたつの大学予科に進学するも、いずれも中退宇都宮高等農林を卒業後、京都帝国大学農学部に再入学した。その後は、京都府立大学、鳥取大学、京都大学で教鞭を執り、京大では東南アジア研究センターの所長も務めた。編著に『稲のアジア史』全3巻(小学館)、著書は『農は万年、亀のごとし』、『稲にこだわる』、『百年の食』(いずれも小学館)ほか多数。




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  88 38号(2014.10.30)



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