街と自然。軸足を移すことで見えてきた新たな歩み。.....Research 小林節正

カルチャー&トレンド

街と自然。軸足を移すことで見えてきた新たな歩み。.....Research 小林節正

長きにわたって積み上げてきたものをリセットする。そして山や自然、ライブなどで受け取った感覚を形にし、再設定させていくこと。

文・菊地 崇/写真・林 大輔


ディテールが付加されたアイテムたち。

– 小林さんが <ジェネラルリサーチ> をはじめて、20年という月日が流れました。

小林 洋服を着る側だった若いときにひとつのブランドと接していたあの頃の時間と比べると、長いですよね。15歳くらいで <VAN> のB.Dシャツを買って…。とはいえ、ずっとアイビーが好きだったわけでもなくて、目新しい方向へもどんどん行きつつ、その都度新しいスタイルに振り回され続けていたから飽きずに同じようなことを20年も続けてこれたというか…。ある意味幸せなんですね。70年代や80年代だと、同じ調子では生きていくことが許されなかった時代背景があったように思うけど、今の自分のように同じ構図で長年仕事を続けていられるのは、言い方を変えれば、前みたく時代が流れてないからなのかもしれない。

– ファッションに目覚めたのは、いつ頃だったのですか。

小林 中2あたりから。アイビーのアイコン、B.Dシャツからです。シャツの襟先にボタンが付いているというディテールにはじまり、チノパンツのバックベルトとかダッフルコートのトグロボタンとかジャケットのエンブレムとか。親の時代にはなかった服のディテールに夢中になって。なぜそんなディテールが付加されているのか、そんなことを知りたくて雑誌ばかり読んでいましたよ。10代の頃に読んでいたファッション誌、例えば『メンズクラブ』には、ここを目指せば何か答えを得られるかもしれない。そんなことが示されていた。



– 確かにファッションにおける雑誌の存在は、今以上に大きかったのかもしれないですね。

小林 雑誌は情報源じゃなくて遊び場だったから。地方都市の本屋が一軒しかないような町では、お店ひとつに匹敵するほどのエネルギーがあったはず。

– 小林さんの実家は靴屋さん?

小林 浅草にある靴工場の倅。2階が自宅で1階が工場でした。父方は靴屋だけど、かたや母方の祖父は鉄砲撃ち。祖父の田舎に遊びに行くと、冬には狩りの人たちがいて。鳥を撃つと、俺は小さいながらに毛をむしらされていたし、冬になれば狩猟したイノシシの肉を喰ったり、自給自足に近いものを垣間見ていたんですね。東京に戻れば戻ったらで、今度はモダンなものと生きていくための現場を見せられるじゃないですか!? そんなふたつの暮らしぶりを交互に見ることができたんですけど、どっちかひとつだけじゃなくて良かったです(笑)。

– 小林さんも、 <ジェネラルリサーチ> を立ち上げる前は靴作りを手がけていました。その小林さんが、なぜカジュアルウェアに進んでいったのですか。

小林 自分の靴をニューヨークで売りたいという夢があって、93年に売ることはできたんだけど、売り場で俺の靴の隣にあったのがポール・ハーデン。もうびっくりしました、彼の靴を見て。イギリス人が西洋の伝統をバラし、組み立て直したものをデザインとして提出している。それを見て、自分が靴屋としてやることはもう何もないと思ったんです。力強さが違うんですね。本当に参ったと思った。そんな頃、自分の発露として残っていたのが、カジュアルウェアをつくるということ。カジュアルに生きている自分の洋服をつくりたいと思ってスタートしたのが <ジェネラルリサーチ> です。当時は街のなかで暮らしていたから街中で暮らす服だったし、後になって、今の話ですけど、山を見つけてからは山の暮らしの服になったと、そんな具合です。

山の暮らしで得た視線。

– 長野に自分の場所を見つけたのはいつだったのですか。

小林 2006年の12月です。2007年から年間を通じて、つまり夏でも雪の中でも、テント泊を続け、木を伐採したり森の掃除に従事しながら、最終的にあのデッキができあがったのが2008年でした。その土地に新参者として入っていくわけだから、夏の朝陽はどこからで出てきて、冬の夕陽はどこに沈んでいくのか。太陽と月を見ながら、テント泊を続けてデッキの場所を設定したんですね。暮らしを再設定できる場所をやっと手に入れることができたというのが、服だけに留まらず、山の暮らしにあったらイイと感じるものすべてを、ひとつひとつテストしながらつくっていきたいと思うようになったきっかけでした。

– 2006年に <ジェネラルリサーチ> という名義をやめたんですよね。

小林 ライフワークとして洋服を捉えていくと、 <ジェネラル(リサーチ)> のままでは、もうこれ以上どこへも行けなくなってしまった自分がいて。つまり、街と自然、その両方を自分の出自としながらも、何かをつくり続けてゆくには何をどうすればいいのか、と。そんなときは軸足をそれまでとは違うものに掛けてみるべきだと思うんです。自分の場合、それは山や自然に軸足を移すことだったけど、こうすることでそれまでまったくできなかったことへ歩みはじめることができた。すごく好きなわけだから、自分なりにファッションの根源的な意味をもう一度問い直せるような場所を探して、その場所に自分の仕事を戻さないと意味がないと思ったし、そうしたいのなら、違う角度でものごとを再設定しなきゃいけない時期に入っているということだったんでしょうね。俺の年齢もそう考えさせられる理由なんだろうし。



PHISHのショーで体感したこと。

– 違う角度で見ること、つまりカウンターカルチャーですよね。小林さんは、現代のカウンターとも言えるPHISHのキャンプショーにも参加しています。

小林 60年代のカウンターやヒッピー、そして、それよりももっと前の時代からアメリカには存在している「自由」へのあこがれ。アメリカが発する自由な概念を求めていたからこそ、その象徴であったアメリカがずっと好きだった。21世紀になって世は変われど、自由の集合体を今も見せてくれるのが、自分にとってのPHISHのライブなんです。そこには面倒くさくない領域というものがあって、個々が持っているセンスを生かす瞬間みたいなものが見える。話が戻るけど、これはファッションにも通ずることなんじゃないかな。

– その意味でいえば、ファッションとは個人のメッセージであると。

小林 ファッションはあくまでも個人のもの、個人に属するもの。個々が工夫して組み合わせをすることがラストリゾートなんだと思っていますよ。

– そして時代も、そこに必然として含まれてくる。

小林 洋服っていうのは、つくり手側に留まっている範疇は、まだ限定された領域に留まっているものなんですね。特にメンズはそれほど多くの要素を持っているわけではないですし。視点を変えて、着る側の個人っていう方向に眼を向けると、とてつもない広がりを見せる。ファッションって、つくる我々も着る人もひとつの材料を共有するから、料理と同じでそれぞれの人の着方によっていろんな味、あるいは解釈が生まれてくる。自由という目線でファッションを見ると、こんなにおもしろいものはない。



– 山にしろライブにしろ、60年代のカウンターカルチャーにしろ、現場で体験したことをまず第一に伝えていくことが大切なんだと思います。

小林 何かを生み出し発信する側は、現場、つまりライブ体験の温度の高さが大きい背骨になっていることをするべき。それは、これまでもこれからも絶対に変わらないですよ。見てショックを受けた側が、いてもたってもいられなくなって表現する。そのモチベーションは明治維新やそれ以前の時代も一緒なはずです。自分の場合は、それはPHISHのライブなどで体験することだけど、非日常の先に日頃の自分を探すとでも言えばいいのかな…見たことをやれないまま終わりたくない。肌身の感覚を、ファッションでも表現したいんですよね。

– その意味では、20年という時間は、まだまだ短いですね。

小林 リズムをどうつくるかだと思います、俺たちは音楽好きだから。表現のフロント部隊は変わるかもしれないけど、リズムは続いていくんです。





PROFILE
.....RESEARCH 小林節正
<ジェネラルリサーチ> を経て、2006年に <.....リサーチ> を始動。掘り下げるテーマに深くフォーカスを絞り込む活動のスタイルに移行する。山、あるいは山の暮らしを題材にする<マウンテンリサーチ>を軸に、さまざまなリサーチを展開しながら活動を続けている。旗艦店 <GENERAL STORE> では、ウェアだけではなく、野外食器やアウトドアファニチャーなども扱っている。

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