BOOK-SHELTER  ブックシェルター 第1回 『最貧困女子』と『チェルノブイリの祈り』

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BOOK-SHELTER ブックシェルター 第1回 『最貧困女子』と『チェルノブイリの祈り』

文・写真・ 版画 =角取明子 

本についてエッジの効いた文章を、とワッカメディア氏に注文を受けた。
さて、考え始めてまず、頭に浮かんだのは鈴木大介著『最貧困女子』(幻冬舎新書)と、この一冊を題材に行われた読書会での<認知的不協和>についてだった。

「貧困女子」がNHKの番組で取り上げられて関心を集め始めた。働く単身女性の3分の1が年収114万円未満だという。10代から20代の貧しい女子のなかにセックスワークで日銭を稼ぐしかない「最貧困女子」がいる。出会い系サイトの実態も「援デリ」の意味もよくわからない私にとって、『最貧困女子』に書かれていることは衝撃だった。丹念な取材で浮かび上がるのは彼女たちの特殊性よりも格差の厳しさだったし、繋がりを断つように醸成された現代社会の貧しさだった。自治体や支援団体に助けを求めることなく生きている(正しくは助けを求めることさえ難しい)女性たちに、著者はにじり寄って言葉を聞き出し、『最貧困女子』他、何冊もの本を著している。

読書会の席でいつも豊富な知識と読書経験をもとに、鋭い発言をしてきた団塊の世代とおぼしき紳士Kは、集まりが始まるやいなや、こう切り出した。
「こんな本、読書会の題材には値しないですよ。興味本位なルポ。ヒューマニズムのカケラもない。かつてのルポルタージュなら風俗嬢ひとりひとりに美しいものを見いだしていた。こんなのは大衆週刊誌のギャラ目当てに書かれたものです」
確かに著者は「整形とダイエットしてから出直せ」と言われた「売れない」女性の容姿をそのまま記述するし、生活保護申請のための書類内容を把握することさえ難しい知的レベルなど、ありのままの「救いようのない」様子を記録する。私にはそれはむしろ誠実さと映った。目を見開いて地獄のような最底辺の真相を知ってくれと訴えているのだと思ったのだが。

K氏はこうも言った。「こんな赤裸々なセックスワークの実態を読むのは男しかいない」と。ワタシ、女性なんですが。

K氏がなんとか内的拒否反応に抗いながら読み終えた時、彼のなかには分厚い鉛のシャッターが下りていたのだと思う。理解不能という残念なシャッター。
こんなひどいことあるはずがない、あってはいけない、あり得ない!→書き手が悪い、ウケ狙いで書いているだけだ、ウソに決まっている、だいたい、人間の尊厳を描くことのない書き手の本だ、語るに値しない‥‥。
こういうのを<認知的不協和>と言うんだと思った。

その日の読書会は「語るに値しない」派のオジサンたちと、「興味深く読んで現実について語り合いたい」派との空しい分裂が起き、「わからない」人と「わかろうとする」人の相席状態、実りある議論は一斉なく終わった。

<認知的不協和>が起きると、自分の都合のよいように解釈して一件落着とする。頭脳のなかにシャッターが下りてそれ以上、考えが進まなくなる。信じたくないことの前で思考を停止するのはある意味、防衛本能に根ざしていると思わないこともない。なんでもかんでも咀嚼してわかろうとすると疲れる。自分が理解できないのではなくて、相手のせいにしてスルーしたほうが「楽」だ。なかったことにする、自分は安全なところにいて、昨日と同じ明日を生きる、と。



こんなことを書こうと思い、鈴木氏の本を読み返していたが、気がついた。まもなく3.11から5年目の日を迎える。地震、津波、そして原発事故の被害を受けた多くの人々、直截の被害はなくても、あらゆる意味ですべての人の生活を大きく変えたあの日から5年がたつ。

私は原発事故後、それまで何も知ろうとせず、考えもせず、電気を使ってきた自分を恥じた。原発についても漠然とした「ハンターイ」意見しか持っていなかった。3.11によってどれだけ多くの人々が避難を余儀なくされたか、どれだけ多くの人があの日救済されずに緊急避難地域に残され見捨てられたか、知れば知るほど、原発の突きつける不条理に声をあげずにはいられなくなった。だから2011年春以降、何度も路上に立つようになり、福島県に何度も通い、毎週金曜日ずっと官邸前・国会前に通って「再稼働反対」と叫んできた。



原発関連の本も何冊か読んだが、今回紹介したいのは昨年ノーベル文学賞を受賞した作家スベトラーナ・アレクシエービッチの名著『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)。

アレクシエービッチは女性の視点から戦争を描いた『戦争は女の顔をしていない』や、子どもの証言による『ボタン穴から見た戦争』など、国家の圧力に抗いながら現実を鋭く伝えてきたジャーナリストだ。

私は2014年11月、チェルノブイリに行った。これまでたくさん旅をしてきたから、もう「旅の虫」はいなくなったと思っていたが、唯一、ぜひ行きたかったのがチェルノブイリだった。事故を起こした原発を見たかった。
ウクライナの首都キエフから車で約1時間、原発から30キロ圏内の立ち入り禁止区域、通称ゾーンに1泊することもできたし、事故を起こした4号機の隣3号機に入り、制御室を見ることもできた。
事故から28年経過し、見捨てられた理想都市プリピャチのゴーストタウンぶりは、映画のなかに迷い込んだような非現実感で、ピーピー鳴り続ける線量計の音がサウンドトラックの効果音に聞こえた。遊び半分でやってきたドイツ人ツアーの一団が真っ白なタイベックス(防護服)もどきのつなぎで現れ、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を模したポーズで写真に収まるのを見ても、なんだかカーニバルみたいだと思った。
非リアルな時間を過ごしながら、4号機にギリギリ近づける場所で石棺に覆われた原発を見上げて感じたことは、「なんだ、こんなに小さかったんだ」。

想像していたよりずっと小さかった。人間を打ちのめすほど巨大な存在だろうと予測していたが、小さかった。つまり、あんな小さなものによって地球の半分くらいの人間の暮らしが揺らいだということ。つまり、人間の科学、知恵、力なんて、さらにさらに小さいということだ。



チェルノブイリの旅についての詳細はまた別の機会にするとして、アレクシエービッチの『チェルノブイリの祈り』に戻ります。

この一冊は事故後10年経ってやっと発表されている。著者は原発作業員、その家族、科学者、元官僚、兵士、移住者、サマショール(強制疎開となった村に自分の一存で帰ってきて住んでいる人)など大勢の人々に取材をした。しかし事故後すぐには、「ほんとうのこと」を皆から聞き取ることはできなかったという。年月を経てやっと話せるようになり、本にまとめることができた。
何人もの証言が掲載されているが、何年何月どこで誰が語った、というようなノンフィクションによくある「記録・説明」的な記述は一切ない。ひとつひとつの証言が原発事故という人間の手に負えない出来事がもたらす結果を伝える「象徴」として提出されている。普遍化された「物語」になっている。

冒頭と最後に「孤独な人間の声」と題された章がある。
どちらも事故収束のために働いた男(消防士・作業員)の妻の証言。

想像してほしい。愛する夫の肉体そのものが「高濃度放射線による汚染物質」として目の前に戻ってきたとしたら…. 。
触れるな、近寄るな、キスなんてもってのほか、抱いてはいけない、世話なんてするな。それでも彼女たちは日々醜くく病変していく夫のそばにいて、全てを看取り、頬ずりし、受け止め愛した。

こうした証言は事故後も原発政策を続けたい国家にとっては無論好ましくない。「たいしたことない」「なかったことにしたい」勢力にとって極めてラジカルな存在となる。アレクシエービッチは独裁政権の圧力や言論統制を避けるため、祖国ベラルーシから脱出していたこともあるという。



私はチェルノブイリへの旅の直前、この本を読んだ。語られた言葉を腹の奥にしっかり抱くようにして歩いたつもりだ。眼前にひろがる非リアルの根元にある膨大な真実として。

一昨日2月29日再稼働4日目にして高浜原発4号機が緊急停止した。関西電力は、原因は特定できないとしながらも外部への放射能漏れはない、と発表した。私は言葉通りに受け取る気はない。
同じく29日、東電元会長らが強制起訴された。やっと原発事故の刑事責任の有無が法廷で争われることになる。

どちらも臨時ニュースで流れていい出来事、トップニュースで伝えてよいことだと思う。果たしてどうだったろうか。



<認知的不協和>ではなく、<意図的誤認><意図的否認>が大きなカラクリの下、行われているのではないかと思う。今起きていることを知ろうとせず、知らせようとせず、なかったことにして、自分は安全だと信じて、昨日と同じ明日を生きる、なんてこと、3.11を経験した私たちにできるのだろうか。
『チェルノブイリの祈り』の副題は「未来の物語」だ。チェルノブイリ事故から今年で30年。チェルノブイリから何を学んだのか。何を未来に語れるのか、ほんとうに本気で考えるフクシマから5年目の日を迎えたいと思う。




プロフィール 角取明子
元編集者・ライター・旅人。現在、版画制作する傍ら路上に立ち、地域コミュニティ活動に勤しみながら毎夜酒を呑んでいる。東京・高円寺で始まったばかりの『本が育てる街・高円寺』プロジェクトメンバー。発案した企画、第1回  本でコンパ=ホンコンhon-com(今回 のゲスト:作家角田光代さん)がまもなく開催。



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