BOOK-SHELTER ブックシェルター 第2回 <彼らはなぜ暴れたのか/私はなぜ暴れないのか> —『都市と暴動の民衆史』より

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BOOK-SHELTER ブックシェルター 第2回 <彼らはなぜ暴れたのか/私はなぜ暴れないのか> —『都市と暴動の民衆史』より

文・ 版画・写真 = 角取明子

4月初め、高円寺の素敵にジャンクなライブハウスでトークイベントが開催された。タイトルは「『暴動』から考える  ──  東京の過去と現在」。サブタイトルは「彼らはなぜ暴れたのか/私はなぜ暴れないのか」。会場の雰囲気とのミスマッチが絶妙だったし、予想通りスリリングな夜になった。

登壇者は近著『都市と暴動の民衆史』(有志舎刊)が研究書としては異例のスピード重版となった歴史家藤野裕子さん( 東京女子大学現代教養学部准教授  )と、2014年に刊行された著書『九月、東京の路上で』(ころから刊)が関東大震災朝鮮人虐殺の現代性を浮かび上がらせて大きな話題となったノンフィクションライター加藤直樹さん、いずれも40代。それに司会&素人ツッコミ+タイムキーパーとしての私。



『都市と暴動 ── 』、ウケ狙いではないかと賛否両論あったらしい帯のコピーはこうだ、「デモから暴動へ!若者が街頭を占拠した」。ここまでで十分刺激的。1905年の日比谷焼き討ち事件(東京の派出所の7割が焼失した!) *註1 から、1923年の朝鮮人虐殺 *註2 まで、民主化のなかで涌き上がった民衆の暴力を取り上げ、どんな人が、誰が、なぜ、どのように、を解き明かした一冊。

(*註1 日比谷公園で開催の政治集会に参加しようとした数万の民衆が警察と衝突し、東京市全体に広がる暴動になった。*註2 関東大震災後、警察・軍隊、自警団によって数千人の朝鮮人が虐殺された)

研究書というとやたら注釈があって、記述の正確さを求められる窮屈な本、と敬遠していたが、『都市と── 』は事件に拘った男たちの顔が見えてくる本だった。面白かった。デモや暴力にいたるまでの暮らしぶりが伝わり、大正期の下層社会がどんなものだったか、疎外感や劣等感や、強烈な承認願望や。それから藤野さんが繰り返し着目している「男性性」の問題や。

こう挙げると、「今」の話なのではないかと思えてくる。

2016年、政治や
社会への不満はある。街頭に立つ若者も増えてきた。でも、ここが違う。(まだ)暴れていない。

トークは『都市と
── 』を軸に進められた。

藤野さんが、客席に向かって質問を投げた。

「あなたは交番が焼かれていたとして、そこに参加しますか?」

「日比谷焼き討ち事件だったら参加しないけれど、米騒動*註3だったら参加します」「怖いから参加しません」「強い権威に対してやっているんだったら参加します」「警察にふだんやられているから、やります」

(*註3 1918年、米価・物価の高騰とそれに伴う生活難によって始まった暴動)

さまざまな答えが返ってきた。

確か藤野さんが紹介したのだったか、教員でもある彼女が授業中に学生に問うたら、「知っているオバサンが参加しているのだったらやります」と答えがあったとか。

藤野質問が続いている間、私も自問自答していた。「私は暴れるのか/暴れないのか」。で、引っかかったのがこの「知っている人がいたら」だった。「暴力は怖いので参加しません」がビビリの私の答えではあるけれど、「知ってる人がいたら」やる、かもしれない。



20世紀初頭の大正の街角で、焼き討ち事件がなぜ東京に広がっていったかは、ちょっとした謎だ。ツイッターもフェイスブックもない時に、あっと言う間に参加者が増えたのはなぜか。

理由はやっているのが「知っている人」だったからではないか、と思った。当時の下層社会で生きる人々は身なりからして違っていたという。ひとり者で親分子分の関係を親方と結び、不満を抱えながら生きていた貧しい若者たち。焼き討ちをしている誰かが自分と「同じ」境遇の「知っている人」という認識をすぐに持ったのではないか。「誰か」ではなく、すぐに「自分」と結びつく、なんというのかな、社会の構造みたいなもの。他人事が我が事になる感覚。つながっている感覚。

さて、「今」を考えてみる。SNSでつながっているけれど、誰かを見て「自分」と同じだと共感して、怒りを共有して立ちあがる、行動を共有することは100年前より容易ではない、のではないか。

そりゃ、同じようなコスプレしてたり、同じアイドルの団扇でも持っていれば、ある種の共感はあるのだろうけれど、もの凄くニッチな符牒を共有していないと心を許さないような、そう簡単には繋がらないような「分断」の空気が広がっている気がする。もし共感があってもそれは趣味やゲームやダイエットの話。それが政治や社会への抵抗にならないような(作り出された、操作された)風潮。「もう、やってられない」の感情、行動が内側へ内側へこもっていくような流れ。(すみません、この辺の考察、まだじっくり考えます)

本に戻ります。『都市と── 』の最終章は「朝鮮人虐殺の論理」だ。

藤野さんは貴重な裁判記録をもとに、流言に踊らされてなんの罪もない朝鮮人を殺した若者の姿を浮かび上がらせる。私は「殺らなければ、自分が(自警団に)殺られる」と虐殺に手を染めたのではないかと思った。 いつ被害者になるかわからない疎外感を彼は持っていたのではないか。加害者は悪い、だけで事件を語ることは大事なことを見落としてしまう。

民主化のなかで生まれた民衆の暴力が、抑圧されていた朝鮮人に向かっていった。これがひとつの流れのなかにあること、排外主義とファシズムがその先にあったこと、ズシンと腹にきた。堪えた。

またしても「今=2016年」の話ではないか。

大学の授業でも学会でもない場で、こういう話、もっとしたい。考えて勉強して、会話したいと「今」だからこそ、本気で思います。



プロフィール 角取明子
元編集者・ライター・旅人。現在、版画制作する傍ら路上に立ち、地域コミュニティ活動に勤しみながら毎夜酒を呑んでいる。東京・高円寺で始まったばかりの『本が育てる街・高円寺』プロジェクトメンバー。

5月3日(火)から開催されるグループ展のご案内
版画家のドローイング展
ー木版、リトグラフ、銅版、様々なスタイルの版画家が描くイメージの源ーhttp://galleryten.org/ten/?p=9985



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