橋口譲二『ひとりの記憶』  取り敢えず解るように仮題

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橋口譲二『ひとりの記憶』  取り敢えず解るように仮題


写真家の橋口譲二さんが、太平洋戦争が終わっても、日本に帰らずに異国で生きていくことを決めた人たちの取材をはじめたのは、90年代のことだった。キューバ、インドネシア、サイパン、ポナペ、フィリピン、台湾、中国、韓国、ロシア…。ひとりひとりに向き合い、ひとりひとりの声を聞き、ポートレートを撮った旅。出会った人数は80人近くになったという。その旅の10人の貴重な声を編んだ一冊が『ひとりの記憶』だ。日本から見れば異郷で暮らす人たち。そのひとりひとりには、様々な物語がある。


文=菊地崇 / 写真=依田恭司郎



●戦争が終わっても、日本に帰らないと決めた人たち。

–––– 太平洋戦争を機に海を渡り、戦争が終わっても日本に帰らずにその土地で生きることを決めた日本人を追ったドキュメント『ひとりの記憶』。そもそも、この訪ね歩く旅をはじめたのは、どういうきっかけだったのでしょうか。

橋口 『17歳の地図』から、ずっと日本を撮っているでしょ。その旅の延長のなかで、見えてきたものをひとつひとつやってきていました。戦争が終わっても日本に戻って来ない方を訪ね歩く。これが突然湧いてきたわけではなく、順番として必然だったような気がします。きっかけは『夢』という明治・大正・昭和・平成を生きてきた方々を訪ね歩いて行ったときに、ひとりの方が「亭主が戦争に出て行ったっきり、戻って来ない。南方で生きていることがわかった」ということを仰られて。その言葉にすっと背中を押されて。僕のなかでは特別な旅ではなくて、『17歳の地図』からの自然な流れで出会ったテーマでした。

–––– 本などで発表することを決める以前に、まず会うことからスタートした旅だったのですか。

橋口 時間が勝負だったでしょ。どうまとめるかっていうことよりも、とりあえずお会いして、写真を撮って、話を聞くことを優先させないと、間に合わないわけです。

–––– 確かにそうですよね。20年前だとしても戦後50年ですし。

橋口 とにかく会っていこうと。当時はインドネシアだけでも76人の方が生きていらした。まとめることを考えると、インドネシアをグルッと巡れば、それだけで済んでしまう。自分が楽したような仕事感が残るのは嫌だなって思って。だからインドネシアで10人撮ったのなら隣の国に行く。そんなことを考え、実行していました。

–––– 戦争というものは、橋口さんのなかで大きなテーマだったのですか。

橋口 難しい質問だな。戦争がテーマだったかどうかと聞かれたら、たぶん違うと思う。僕はひとりひとりの生き方に興味があったわけでしょ。興味というか関心があった。だから自分が生きている時代に、同じように生きている人たちを訪ね歩きはじめたら、たまたまそのなかに戦争を生きてきた人たちがいた。

–––– しかし、この旅でお会いになったすべての方のバックボーンには戦争がある。

橋口 戦争とは、個人個人の人生を、有無を言わさずブロックするわけだから。

–––– 夢や希望も排除させられるわけですよね。

橋口 感傷を許さないわけでしょ。僕はそう思っていたし、実際にそうでした。そんな戦争という時代のなかにいても楽しんでいる時間があった。その部分が抜け落ちてしまっているから。戦争という歴史的な情報だけが送り出されてくるから。今、生きている僕らが受け取ったときに通り過ぎちゃう。そうさせちゃいけないっていうのがあって、それが一番の課題でした。歴史家の仕事があって、それも大切なんだけど、僕は人間の生き方に関心を持って、興味を持って続けてきたから。そこは外しちゃいけないと思った。

–––– ひとりに対して、数日間お会いになったのですか。

橋口 数日に及んだこともあるし、半日のこともあるし。移動手段が楽なところっていうのは、ポンポン次の人に移っていける。簡単にたどり着けないようなところでは、必然的に二日いたり三日いたり。向かい合って話をお聞きするのは3時間でも4時間でも、年齢が年齢ですから、みなさん体力が持たないじゃないですか。日本から訪ねてきたっていうんで、懐かしさと日本語を気兼ねなく話せるという開放感で、一緒にいたいけどバタッと倒れる可能性もある。だから、お話を聞くのは、できるだけその方々が見てきたであろう、歩いてきたであろう場所を意識していました。この風景をどう見たんだろうなとか、朝晩歩かれていたんだよねとか、そういうことを考えながら歩いてきました。

–––– 旅はどのくらい続いたのですか。

橋口 取材そのものは6年から7年くらいです。

–––– 橋口さんにとって、その期間は長い方なのですか。

橋口 長い短いではなく、それをまとめるまでの時間だと思います。インドネシアだけで終わらせたら、取材は一年もかからなかったと思います。戦争って多面性があるわけじゃないですか。いろんな側面がある。その人によって戦争の形も変わってくるから。いろんなところに行ってみないと見えてこない。

–––– 僕は橋口さんにものの見方の多面性を教わったんです。

橋口 だから人間とか人生はおもしろいし、生きる価値があるわけだから。



●一度書いた先に見えてきたもの。

–––– 一度原稿としてまとめて、それをゼロに戻して、もう一度書き直したということですが。

橋口 書いたものが、歴史家の仕事じゃないかって思いはじめてしまって。僕は実際に人に会う。歴史家は資料とか回顧録をもとに組み立てていくわけでしょ。僕の仕事はそっちじゃないんだっていうことを自分で確認するために、一度書き上げる必要があったんだと思う。自分が気になったことをひとつの形にしてみないと、自分の関心の動機がわからなくなってしまう。自分の語り口を探して、自分のものに丸をつけていくことによって、なんとか踏ん張れたんだと思う。

–––– 自分の語り口を探すために、何年も置かれていたのですか。

橋口 10年くらいは置いていたんじゃないかな。

–––– 話したい、もしくは心にしまっておきたい。どちらの方のほうが多かったですか。

橋口 立場によるよね。だけど戦争の話をそれほど聞かなかったので。みなさんがに「私に興味を持ってくださったんだ」っていうことは伝わっていると思うので、割と話してくださったと思います。

–––– その人のストーリーを聞く。そして寄り添う。書くための語り口がなかなか見つからなかったということですが。

橋口 どうやって70年前80年前にみなさんに流れた時間を、今を生きている、今も生きている人たちに現実感を持って読んでもらえるかということだから。僕が最初に書き上げたのは、資料をもとにしていた。それは昔の話なんだよ。昔の出来事でしかない。

–––– 考えてみれば、歴史小説を読む場合でも、今の時代に置き換えたりしますから。

橋口 だから、それをどうやって自分の方法でつないでいくか。自分自身の考え方や記憶を挟み込むことによって、今に繋がるかもしれない。だからその意味では純粋なノンフィクションではなくなるかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。どうやって伝えるか、親身に読んでもらえるか。『ひとりの記憶』というタイトルにしたのも、お会いした方、戦中戦後に生きた方のなかに流れている記憶と、僕のなかに流れている記憶と、読んでくれる方の記憶が折り重なればいいという思いからだったんです。読んでくださる方は、僕をどけてくださっていいんです。本のなかに自分が入ってくださればいい。

–––– 書くにあたって、もう一度会いに行かれたりはしたのですか。お亡くなりになられた方も多いと思うのですが。

橋口 20年以上前の風景が、書きはじめると蘇るんです。それはアナログとデジタルの違いだと思うんだけど。僕らって気になったところは足を止めるし、写真を撮るときってピントを合わせる。そこには何らかしらの意志が働いている。だからその村や町、その国を歩いているときは、知らず知らずのうちに自分の意志で見ているわけ。それは記憶のどこかに残っている。フィルムで撮ったら、ベタや紙焼きもするだろうしファイリングもする。かなり些細なことも記憶に残っている。

–––– アナログで撮ったからこそ、記憶に残っていると。

橋口 投げ出したまんまの仕事のひとつに、ベルリンの壁崩壊の20年後の人間模様を描こうと思っていて。そのときはデジタルカメラでメモ代わりに抑えてあるんだけど、そのときの空気感や雰囲気を思い出せないんだ。自分の意志を込めていないからなんだね。

–––– 書きはじめるときは、自分の写真はご覧になるのですか。

橋口 写真は見ないですね。原稿を書き上げて、ゲラが出てきてから写真を選びました。写真っていうのは、良くも悪くも、見てわかるじゃないですか。だから想像しないんだよ。原稿を書くときは見ないようにしています。



●記憶の扉を開いた責任。

–––– デジタルの進化も要因のひとつかもしれませんが、時間の波はどんどん速くなっているように感じます。

橋口 だから苦しかったですよ。終わらないし、頭がおかしくなった。写真は、撮って、フィルムを現像してプリントすると、たとえ写真集に使わなくても向かい合うことってできるけれど、原稿はそれができない。僕の場合は訓練ができていないから。だから自分のやっていることがピンと来るまで時間がかかってしまった。これがいいのか、価値があるのか、ただのつぶやきなのか。

–––– 記憶を戻していくということも含め、ひとりずつ書き終えていったのですか。

橋口 訪ねて行った順番に書いていったの。そうすることによって繋がっていく。時間が経っているなっていうことはなんとなくわかっていたんだけど、自分のなかでこんなに時間が経過しているとは思わなかったな。

–––– ものつくりを考えると、20年という時間はそれほど長くないと思います。

橋口 そうかもしれない。写真くらいかもしれないですね、パッパッパッとやれるのは。音楽をやっている友人は「20年なんて大したことないわよ」って軽く言ってくれて。

–––– 橋口さんは80人近くの方に実際にお会いし、話を聞いています。そのひとりひとりの記憶を任されたというような感覚なのでしょうか。

橋口 任されたというよりも、聞いてしまった、知ってしまったという責任のほうが大きいですね。任されたというと、ちょっと傲慢な気がするんだけど、記憶の扉を開けてしまった責任があるわけじゃないですか。それをきちんとしなかればいけないなって思って。

–––– 日本語をうまく喋れない方もいらっしゃったわけですよね。

橋口 一度、身体に染み付いた言語だから、時間が経つうちにどんどん出てきて。日本にいても、80歳90歳になると、言葉がどんどん少なくなっていくわけだから。

–––– 確かにそうかもしれませんね。

橋口 ただ日本で暮らしていた方よりも、記憶は蘇ったような気がします。たぶん、日本は平和で落ち着いているからじゃないかな。なんかの拍子に外側から動かされたときには、出てくる可能性があると思うな。僕もこれを書いているときに、子ども時代の思い出がずいぶん蘇ってきたから。

–––– そう考えると、記憶って不思議ですよね。

橋口 きっとみんな、それを頼りに生きているような気がするね。



●考えることの大切さを投げかける。

–––– 今、続編を書かれているのですか。

橋口 それも責任だと思っていて。出版社が出してくれるかどうかは別にして、自分のなかでは終わっていないんです。本が届けられたときに、一日か二日は、久しぶりに文字でまとめられたという安堵感があったんだけど、三日目くらいからこれでいいのかなって僕のなかから出てきて。だからまだ俯瞰できないですね。

–––– もう一度再訪できるなら、どこへ行ってみたいですか。

橋口 許されるのなら、全員のところにもう一度行きたいですね。僕は今までずっと人間を見てきたでしょ。だから、例えばミクロネシアとかサイパンとか、移民の人たちが耕していた土地を見てみたい。戦争中に収容されていたキューバの収容所とか、シベリアの抑留所とか。場所を見ていないんですよ。

–––– 戦争の本ではないと橋口さんは仰っていますけど、戦争を生き抜いた人たちの記憶ですから、人類の財産になるはずなんです。今、日本が戦争に向けて動き出してしまうかもしれないという空気感もあります。だからこそ、記憶を残す必要もあると。

橋口 今年の東日本大震災の日に、渋谷のスクルランブル交差点で見た風景。むき出しの欲望っていうか、刹那感というか。狂乱と言えるかもしれない。明日にでも終わっていいやっていう感覚を感じたんですね。ここはなんだろうかって思ってしまって。この国というか世の中を、みんなが終わらせたがっているんじゃないかと。それがイコール戦争かもしれないし。僕らは考えなくなっているのかもしれない。今の暮らしとか将来とか、自分が長い歴史のなかでどう立っているのかとか、そういうものをきちんと考えて欲しいから、この本を書いたんですよ。僕も自己矛盾を抱えているように、みんなが矛盾を抱えている。それを含めて考えなきゃね。




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