江戸学から見た  田中優子

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江戸学から見た 田中優子

“just enough”= これで充分、足るを知る。
江戸時代の人々の精神である。
江戸学は、江戸時代の歴史や文化を精密に再構成する「学問」から、
当時の暮らしに学んで現代の生活を変える「運動」になりつつある。
そんな江戸学を牽引する研究、
田中優子さんに布、そして野良着について聞いた。

文・藍野裕之

江戸時代は木綿の時代

〈 じつは江戸時代こそが日本の歴史上唯一の「綿花の時代・木綿の時代」だったのである 〉とは、田中優子さんの著書『カムイ伝講義』(小学館)の中の一節である。

室町時代に綿花栽培が模索され、江戸時代になると本格的な綿花栽培が行なわれ、手紡ぎ、手織りの木綿の国内生産が始まったのだ。ところが、明治になると工業製品を輸入することになり、国内における綿花栽培、木綿の生産は衰退していってしまう。

「それまで朝鮮木綿をずっと輸入してきていますので、最初に国内で栽培され始めた綿花は朝鮮から伝わったものだったと思います。紡ぎ方も、織り方も朝鮮木綿のものだったのでしょう。ただ、朝鮮木綿のやり方ですと太い糸しか取れないんです。それを織るとジーパンのようにごわごわで、着られないわけではありませんが、船の帆や兵隊の装束に使われていったんです。

ところが、江戸時代も17世紀後半から絹のような手触りの木綿が現われてきます。その頃からオランダ東インド会社がインドや東南アジアの木綿を運んでくるようになりました。当時のインドの木綿は糸がすごく細いんです。そして輸入が増えていくわけですが、こうした着物に仕立てられる木綿も国内でつくられるようになります。どうやってつくったかは謎のひとつ。インドの紡ぎ方を身につけるしかなかったのですが、インド人が日本に来たという記録は江戸時代にはありません。それでも、どうにかしてインド式の紡ぎ車を導入したのだと、私は推測しているんです」

江戸時代、インドやインドネシア各地からもたらされた木綿の多くは縞木綿だった。 <縞< という漢字にはストライプの意味はない。 <縞< は当て字で、当初は <嶋< と表記したのだという。ストライプの木綿は南方の島々からやってくるから、「しま」といわれ始めたのだ。

さて、このようにして木綿が波及する以前、私たちの祖先はどんな素材で衣服を作っていたのだろうか。

「絹はありました。日本には天蚕と呼ばれる、カイコを養うのではなく、天然のヤママユガの繭から糸を取って織る生成りの美しい織物がありました。ただ、高級品です。一般的には麻が多く用いられてきました。麻を輸入していたという記述には出会ったことがありませんから、相当古くから自生しているもの、あるいは栽培を行なって繊維を取ってきたのでしょうね」


木綿地普段着兼用野良着(北九州市立自然史・歴史博物館 写真提供)

野良着の刺繍と当て布

「麻のほかにも、?布などのように木の皮から繊維を取って織る布がありましたが、沖縄の芭蕉布の工程を見てもわかりますが、木の皮から糸をつくるのはすごく大変です。それに比べれば麻のほうが楽ですから、麻を使うことが多くなっていったのでしょう。江戸時代が木綿の時代といっても、それは着物でのこと。農民の野良着は麻です。麻は寒いです。木綿に比べたら段違いに寒い。これを東北で着るとなると厚みをつけなくてはいけません。そこで、刺し子になりました。糸を刺す。つまりは刺繍です。織った麻布に麻の糸で刺繍をして厚みを出す。津軽のこぎん刺しが有名ですね。

こぎん刺しは、麻布に綿糸で刺繍するようになります。江戸時代は綿の時代で、綿花栽培も全国に広がるんですが、東北は撤退しているんですよ。関東でもつくらなくなります。生産が多くなるのは西日本ですから、東北には綿糸が入ってきても量が少ないはずなんです。そこで麻を地に使って綿糸で刺繍をした。そうすれば温かくなるし、丈夫にもなります。刺し子をする場合は、肩から背中にかけてです。荷物を担ぐ場合、肩から背中が擦れてきますからね」

津軽のこぎん刺しは明治に入って衰退していったが、昭和初期から復興運動が起こっていき、古くからの技術が受け継がれるようになっていった。菱形を基調にした美しい刺繍で、そのデザインは、薄い布を厚くするとか、荷を背負うために補強するといった実用性を超えた何かを感じる。

「呪術的なものは込めているけれども、むしろパワーを込めている程度のものであって、宗教的な観念はまったくないんです。宗教的観念が薄いのが日本の布の紋様の特徴なんです。刺繍をする、糸を刺すという行為をするとき、世界各地でよくあるんですが、身近にあるものを写しているという意識。これがこぎん刺しなどにもあるんです。やがて、意匠が決まってきて伝承されていく。こうしたほうが格好いい、美しいという意識も、もちろんあったと思いますよ。

それから労働着でいいますと、江戸時代のズボンのバリエーションというのはすごいですよ。いろいろな種類があった。ニッカーのようなものもあったわけですから。農民たちも寒いときはズボン系のものを履いたでしょうが、野良仕事のときは下には何も履かないほうが一般的でした。野良着の上着は筒袖です。着物のような袖だとじゃまでしょうがない。長さは膝上。それが痛んできたら、当て布をするんです。大事なことは清潔にするということで、いくら当て布してもバカにされることはないわけです。当て布をしていると恥ずかしいということになってきたのは、戦後のことですよ」


山麻衣生地(原始布・古代織参考館 写真提供)山野に自生した大麻を用いて作っている。 野生化した大麻の繊維は栽培した大麻に比べ短く硬い。

運動としての和装

田中さんは近著『鄙への想いー日本の原風景、そのなりたちと行く末』(清流出版)で、〈江戸学が文献的事実だけを研究するいわゆる「学問」から、時代の現実に直面し、乗り越えていくための方法を発見するための「運動」になりつつある〉と書いている。

たとえば綿花を自国で栽培する。野良着の刺し子や当て布をする。こうした江戸時代まであった暮らしを知り、そこに学んで現代の暮らしを変革しようという動きを感じ、そう記したのだ。そんな田中さんは、自身でも着物をよく着る。

「私の場合、ある時期から講演が多くなって、ジーパンでは行けないし、キャリアウーマン・スーツは苦手ですし、どうしようとなったときに、家に母や祖母の着物があったので着てみたんです。それがきっかけでしたが、着始めてみると運動として成り立つという感覚はありました。実際には着物を着ている人は少なくてなかなか伝わりませんが、そうした中にも地元産の織物で仕立てた着物を着ようというグループが出てきたりしています。

私は、着るものそのものが生き方を表現するというのが理想だと思います。ガンジーが自分で紡いだ糸を使って自分で布を織り、それを身につけました。政治的な運動の一貫としてそうしたわけですけれど、ガンジーがそうできたのは、あの姿を見て多くのインド人が古い時代のわれわれだとわかったからだと思うんです。いま、江戸時代の野良着を着て町を歩いたらどう思われるか……(笑)」

もしかすると、自身の生き方を表現する手始めは、野良着の当て布にならって痛んだ衣類をパッチワークして、繕いながら着ることあたりなのかもしれない。

「裁縫ができなくてはいけませんね。あるいは裁縫が上手にできる人を育てる。着物は汚れたら洗い張りです。着物を一度解体して、部分ごとに洗濯して、縮まないように板に張って乾かし、縫い直す。洗い張りができる人がいなければ着物は着ることができません。いまは雑巾も買う時代ですが、私の父方の祖母などは裁縫で5人の子どもを育てました。少し前までは、裁縫が上手な人がたくさんいたんですよ。着物を着る、野良着を着るということは、それを支える洗い張り、裁縫、刺繍なども含めた文化が土台にないとできないことです。

私は原発には反対ですが、なかなか引き返せません。江戸時代の暮らしに学ぶといっても、なかなか引き返せません。生活の中で部分的にでも取り戻していく、という人たちが出てくることでしか立ち返れないんですよ。最初は運動になります。そっちのほうがお金が儲かるということはまったくありません。でも運動を広げていかないと、文化全体、文明全体が、立ち返れないという方向に引っ張られていきますから、壊滅的な状態になるんじゃないですか」


profile たなか ゆうこ  写真・都多 重
法政大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。文学修士。専門は江戸近世文化・アジア比較文化。2014年4月より、法政大学総長を務める。『江戸百夢』で芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞を受賞。2005年紫綬褒章受章。主な著作に『世渡り 万の智慧袋』(集英社)、『布のちから』(朝日新聞出版)ほか多数。

BOOK 『布のちから 江戸から現在へ』(朝日新聞出版)
アジア文化の中で、手作りの布は、どのように作られ、流通し、愛されてきたのか? 「布が意味するもの」「織るということ」について著者の考察を記した一冊。


BOOK 『鄙への想い』(清流出版)
「鄙」とは、「都市部」から離れた「いなか」のこと。「鄙」と「都」の構図から見えてくるものとは? 江戸の価値観を通して、現代社会が抱える矛盾に迫る。


写真・つがる刺しこぎん(手仕事専科 商品提供)
自家製麻布を藍で染め、それに白綿糸で刺し、衣服に仕立て、着用していた。 このこぎんはその美しい文様を民芸品として現代に普及しようと作られたもの。

  この記事を掲載している『88』36号のebookはこちらから
   ※PCブラウザ、iOS(iPhone、iPad)のみ対応。

  88 36号(2014.4.30)

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