仙台で生き続ける理由 虹乃美稀子(仙台ゆんた/虹のこども園)

ローカル(日本)

仙台で生き続ける理由 虹乃美稀子(仙台ゆんた/虹のこども園)

震度6強を記録した東仙台。「はわないと動けない」ほどの強い揺れだ。地震の後、放射能という「見えない恐怖」とも対峙しなければならなかった。仙台で子どもたちを守ること。それは東北の未来を自分たちで築くこと。

文・宙野さかな/写真・宇宙大使☆スター

2011年3月11日。東仙台では震度6強を記録した。普段は午後の保育をしていない独立系幼稚園の <仙台ゆんた/虹のこども園> には、卒園児の延長保育で5人の子どもたちがいた。

「大男がグワッとこの家を抱えて揺らしている。そんな感覚でした。仙台は地震が多いこともあって、私はあまり怖くないんです。けれど強い揺れが3分近く続きましたから、子どもたちに『大丈夫』と言っても信憑性がなかったですね。子どもたちが恐怖に引きつった状態になる。その表情をはじめて見たことのほうがショックでした」と語るのは園長の虹乃美稀子さん。

東日本大震災以前から脱原発の活動をしていた虹乃さんにとって、放射能のことも頭にあったが、それ以上に子どもたちやスタッフの安否確認を優先したという。園のある東仙台は内陸部といっても、太平洋から5キロほどしか離れていない。 <仙台ゆんた> のスタッフも、ひとりは海の近くで暮らしていた。

「窓に目張りをして、屋内退避を徹底させて。そうこうしているうちに、友人が仙台を出るバスをチャーターしてくれました。最初の出発日が17日。知っている限りの保護者さんと親子に連絡したんですけど、一日目はほとんど乗らず空っぽで出発しました。私も行くかどうか迷いましたよ。親もいるし、残らざるをえない子どもたちもいる。けれど決心して最後の3便目に乗ることにしました。3月19日のことです。先生の私が乗ると言ったら、急に私も私もとなって…。みんな心細かったんですよ。人類は何度も理不尽に土地を追い出されてきたわけですけど、それってこういうことなんだなって思いましたね」

女性と子どもだけが乗ったそのバスの光景は忘れられないという。降り注いだ放射線量の値が次第に明らかになり、虹乃さんは4月上旬に仙台に戻ってきた。それは覚悟が定まったからだったに違いない。



「一般的には、仙台は放射線量が低いということもあって、何ごともなかったかのように震災前の暮らしに戻りたがっています。一方では、一度絶望に陥り、それでもそれぞれの選択によって東北で生きていくことを決めた人たちもいる。私は後者なんですね。何ごとにも裏と表があるように、故郷で原発事故を経験したことによって、私たちはこの事故がなかったならば学びえなかったことを学ぶことになった。そして人との繋がりがより深くなりました。それが希望かなと思います」

虹乃さんは今も脱原発に向けた活動を続けている。けれど子どもたちの前では放射能のことを語らないようにしているという。それは放射能が理解できない子どもに不安を与えたくないという思いからに他ならない。

「世界を信頼できるという感覚を育むのが先です。子どもたちの命を守りたい。どれだけ安全に、健康に、楽しく育てていくのか。それが私たち大人の責務です。子育てって、私は文化創造だと思っています。どういう価値観でどう育てていくのかということが、市民文化の一番の礎になっていると思います。私はこの場所で、子どもやお母さんたちと向き合っていきます」

福島第一原発から90キロしか離れていない仙台に生き続けている理由を、虹乃さんは「みちのくへの愛」と語った。故郷で生きることの強い意志がその言葉に潜んでいる。



PROFILE 虹乃美稀子
仙台市の保育士として保育所や児童相談所に勤務していたものの退職し、2000年に音楽発信スペース「仙台ゆんた」をオープン。シュタイナーの幼児教育を学び、2008年に独立系幼稚園「虹のこども園」を開園した。東日本大震災前から脱原発の活動を続けている。

ヒッピー系の「お祭り」と呼ばれるフェスに参加するミュージシャンなどが全国から集った「仙台ゆんた」とシュタイナー幼稚園の「虹のこども園」。少人数による家庭的な保育を大切にしている「虹のこども園」は、月曜から水曜までが幼稚園で木曜と金曜が未就園児の親子クラスと分けられている。
spaceship 仙台ゆんた/虹のこども園
仙台市宮城野区東仙台2-7-7

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