アイヌ長老の教え   第1回 イランカラㇷ゚テ(こんにちは)

ローカル(日本)

アイヌ長老の教え 第1回 イランカラㇷ゚テ(こんにちは)

語り部・秋辺得平
写真・片岡一史/切り絵・依田恭司郎

アイヌ語の「こんにちは」という言葉は、一般的には「イランカラㇷ゚テ」を一語ごとに区切っていくと、「あなたの心に触れさせてください」となります。さらに細かく区切ると、kaとは表面でrapとは鳥の羽。ですから「あなたの心にそっと触れさせてね」という意味になります。

ただこの言葉をしょっちゅう使っていたのかというと、決してそうではなくて日常的には用いませんでした。

挨拶とは、行為の重さや尊さに関わっています。挨拶をする相手で、いつも一番近くにいるのが家族です。ひとつ屋根の下で暮らす夫婦や親子という関係。家を一歩外に出て発生するのが、コタン(村)のなかの隣人です。家族間やコタンのなかで、普段からちょくちょく出会っている人に「イランカラㇷ゚テ」とは言いません。もっとも身近な人に対しては、むしろ何も口に出しません。言葉として発しません。これが原則です。目礼が重要視されます。つまり、目を見ればすべてが分かる。とにかく朝起きたら夫婦でも子供達でも目を見るのです。愛する人の目を見ることで、良く寝られたかな、顔色はどうかなということを察知する。これが家族の思いやりなんですね。村のなかでは、今の時代で言えば、学校や会社という場所もそこに含まれるんでしょうけれど、家族からひと回り広がった世界での挨拶は「飯食ったか」でした。顔は知っているけれど、時々しか会わない間柄では「元気だったか」。「元気だったか」をアイヌ語では「エイワンケヤ」。「イランカラㇷ゚テ」とは遠くからの客、いわゆる来賓の人に対して使う言葉なのです(最近では、やたら使いすぎのようです)。

アイヌ語の挨拶は、日本語や英語やフランス語の挨拶のように朝昼晩とは何の関係もありません。誰と会うのか、どんな時なのかの方が重要なことなのです。「飯食ったか」という問いかけこそが、人間として日々生きているうえで最も大切な食事をとったかとらないかっていう言葉かけこそが、親しい人、身近な人に対する挨拶となったのです。もっと親しいのは家族の場合、飯食ったかどうかっていうのは当たり前のことですから、目を見て判断した。

近代社会になって、交通の便が良くなりました。通信手段が発達しました。貿易が盛んになりました。人と人との行き来が、中世くらいまでの人類社会とまったく違うものになりました。激しい人の移動が、時代を重ねることによってどんどんどんどん加速していきました。それに付随するかのように、挨拶言葉が本来のものから少しずつ離れていって、時間を表現するための言葉になっていったのだと思います。日本語の「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」という言葉は、明治以降に使われるようになった言葉です。

「イランカラㇷ゚テ」や「エイワンケヤ」という挨拶の言葉とそのなかに含まれる意味、そして何よりも目礼、目を見て相手に対するということの大切さをエカシ(長老)から教わりました。

もうひとつエカシから教わったことは、挨拶とは危険な行為だということ。考えてみれば、挨拶の種類は言葉、お辞儀、握手、そしてハグハグ(抱き合う)とあります。言葉以外は目線を外し、身体的に触れ合うことです。相手に隙を与えることであり、危害を与えられる可能性があることなのです。つまり挨拶とは、危害を危害を与えられる可能性のある行為なのです。昔は、今の時代のように情報がたくさんあったわけではありません。知らない人に会うことは珍しいことであり、場合によってはわけのわからない人の場合だってあり得ました。危険な行為を受ける可能性のある人に対しての挨拶が「あなたの心にそっと触れさせてください」だったのです。

もっとも核となる人間関係が家族です。家族の挨拶こそが原始的なものであり、それは目礼でした。目礼が挨拶の基本です。「飯食ったか」と言う場合にも「エイワンケヤ」と言う場合でも、「イランカラㇷ゚テ」と言う場合でも、相手を敬う気持ちとともに相手の目を見てきちんと対しなければならないのです。

  i     ram    karap    te
 それ   心           触れる  〜させて
(あなた)
    
あなたの心にそっと触れさせてね。

                             
profile 秋辺得平  
1943年、千島ウルプ島生まれ。アイヌの人権問題に広くかかわるとともに、文化継承にも力を入れ、釧路アイヌ民芸企業組合をベースに精力的に活動を続ける。

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