アイヌ長老の教え 第16回 暮らす場所

ローカル(日本)

アイヌ長老の教え 第16回 暮らす場所

語り部・秋辺得平
写真・廣川慶明 /切り絵・依田恭司郎

アイヌの人口は、最大で数万人だろうと考えられています。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外の場所を蝦夷地として分けていました。松前藩が意識していた蝦夷地のアイヌは、3万人くらいだと思われています。その7割くらいが日高地方にいたと言われています。おそらく日高には2000くらいの〈コタン(村)〉があったと思います。

日高に〈コタン〉が多かったのは、南に位置していたからに他なりません。北海道とはいえ、太平洋沿いは雪が少ない。日高に〈コタン〉が多かったもうひとつの理由は、鹿が多く生息していたこと。鹿も雪が深く極寒の地ではなく、温暖な場所を求めていたのです。雪が多く、寒さも厳しかった旭川などには〈コタン〉がほとんどありませんでした。後に和人に追われ、山での〈コタン〉を形成していきましたけど、基本的に〈コタン〉は海沿いの温暖で雪が少ない場所にあったのです。〈コタン〉は北には少なく、あるとすれば利尻や留萌です。

樺太にも、かつてはアイヌはいませんでした。北樺太に住む人たちのことを〈ウブタ〉とか〈ニブヒ〉と言います。遊牧民やトナカイという意味です。この〈トナカイ〉も、実はアイヌ語です。数百年前の樺太には遊牧民しかいなくて、後に北海道のアイヌがわたっていったんです。それでも〈コタン〉を作ったのは、北緯50度よりも南です。

樺太に比べ、千島には数多くのアイヌが暮らしていました。1000年以上も前から千島にはアイヌが暮らしていた。3000年前、5000年前、氷河期が終わった後には、アイヌがいたんじゃないでしょうか。私も生まれたのは千島のウルップ島です。

17世紀に松前藩が提出した自藩領地図には国後や択捉などの、いわゆる北方四島をはじめとして、千島の39もの島々が記されていました。松前藩から見れば、千島は蝦夷地、つまりアイヌが住む場所だったのです。

千島、カムチャッカ、そしてベーリンジアを越えればアメリカ大陸です。カナダ北西部のインディアンが描く文様とアイヌの文様は似ています。かつては国境なんてありませんでした。海伝いに文化は繋がり、人は交流していたのです。

今、私たちアイヌは、世界中の先住民族と交流があります。先住民族は、自然を敬いながら、慎み深く暮らしてきました。どう自然界に対応して生きていくか。自然を観察しながら、自然と共生していく。『日本書紀』で書かれた渡島、蝦夷地という厳しい環境のなかで、アイヌは自然と付き合いながら暮らす場所を見つけていったのです。それが日高地方であり千島でした。海の恵みをいただいて暮らしていたのです。

profile 秋辺得平  
1943年、千島ウルプ島生まれ。アイヌの人権問題に広くかかわるとともに、文化継承にも力を入れ、釧路アイヌ民芸企業組合をベースに精力的に活動を続ける。

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