アイヌ長老の教え 第17回 人間の豊かさとは

ローカル(日本)

アイヌ長老の教え 第17回 人間の豊かさとは

語り部・秋辺得平
写真・廣川慶明 /切り絵・依田恭司郎

<アイヌ>とはアイヌ語で「人間」という意味です。アイヌの立場から「人間の豊かさ」を考えてみたい。

「お前、何ものだ?」と問われたとします。近頃では「日本人だ」、あるいは「アメリカ人だ」と「国家的所属」で応えることが多い。

「動物のサルでもない、人間だ」。かつては多くの人がそう応えていたでしょう。けれど、今はそう言わないし、民族名を名乗る人も増えています。

この人間という生物が、今や「化け物」へと急変しています。人間同士の殺し合い、戦争、争いは何百万人もの大量殺戮に及んだり、兵器による地球環境の破壊は目に余るものがあります。こんなことは人間界だけで、他の生物界にはあり得ないこと。争いがあっても、それは「命をつなぐ」ために食べることをめぐってのことで、破壊滅亡的なものではありません。人間界の争いは、民族や宗教の対立、国家間の利権争いなどが極だっていて本当に恐ろしい。

アイヌや他の先住民族でも「争い、戦い」はありましたが、それが相手への威嚇どまり、最後は「話し合い」が終着でした。無謀な大量殺戮など起こりようもなかったのです。

今や、近代文明の時代といわれながら、都市でも地方でも、一般市民社会に起きている「子が親を殺す」、「子を放置し死なす」などの現象は「倖せや豊かさ」とは何かを、私たちに厳しく突きつけてきます。

アイヌの長老の話に、「本当に!」というようなのがいくつもあります。「留守中に誰かが訪ねてきて、食事に困らぬように、一食分ぐらいはわかるように置いておく」のだそうです。

アイヌだけではなく、ロシア・シベリア連邦の先住民族を扱った映画『デルス・ウザーラ』にも同じようなシーンがありました。

ロシア人兵士が食べ残した肉片を、焚火の火中に投げ捨ていたことに対し、先住民  が「なぜ火にくべる。残った食べ物なら森の住民(動物たち)にあげればいい」と諭します。

また、山小屋を立ち去るときは、次に来る人が困っている場合のために、少しの干し肉と穀物を、小屋の中に吊るすのでした(吊るすのはネズミにとられないため)。

先住民に伝わるこうした文化には、「共に生きる」姿を見い出すことができます。多くの場合、互いに認めあう、人と人とが寄りそう、共生思想を言います。

現代社会、とりわけ都市では「出かけるときは施錠」が常識。住居も「文化住宅」に寄せた便利さ追求から、今どきの家の事情の機能とか豪華さに走る一方、大切な家族の「寄りどころ」を失ってきたのではと思えるのです。アイヌの伝統的な家〈チセ〉は、衣、食、儀礼、子の養育、教えの場などとして多様で豊かな住居でした。それは、人と人とをつなぐ大切な場だったからです。祖末なカヤ葺き小屋に見えるかもしれませんが、とんでもない、優れもののエコ住居であり、家族にとって、心豊かに暮らせる場だったのです。

秋葉原での無差別殺傷事件、これこそ野蛮といえば、このうえない野蛮。どこか片寄っていく現代の社会の問題の多さにとまどいます。何がこうも、人間を複雑にしてしまったのでしょうか。

実のところ、最近になって「未開」はシンプルなことと思えるようになりました。シンプル・イズ・グッド!

「シンプル」は、かなり奥深い。考えてみませんか。

profile 秋辺得平  
1943年、千島ウルプ島生まれ。アイヌの人権問題に広くかかわるとともに、文化継承にも力を入れ、釧路アイヌ民芸企業組合をベースに精力的に活動を続ける。

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