伝統的な祭りと革新的なフェスが邂逅した2011年夏 うごく七夕まつり@陸前高田

ローカル(日本)

伝統的な祭りと革新的なフェスが邂逅した2011年夏 うごく七夕まつり@陸前高田


津波で大きな被害を被った町。伝統を引き継ぎ、ときを取り戻すために祭りの開催を決定した陸前高田の人たち。その想いに応えるように、ミュージシャンやボランティアが駆けつけた。陸前高田は「何も無くなってしまった」町ではなく、希望と絆という大切なものが残った町だった。

文/写真・菊地崇

900年続いた伝統を繋ぐ。

想像してみてほしい。

総世帯が8000強の港町で、全壊が3800、大規模半壊が180を超えるほどの被害を受けてしまった町の風景を。

想像してみてほしい。

総人口2万4000人の港町で、死者と行方不明者が2000人近くを数える町の人たちの心の痛みを。


リアス式海岸の三陸は、山が海岸線近くまで迫り平地が少ないのが特徴だ。リアス式海岸のもうひとつの特徴が、海岸線に対して湾が直角に開いていることが上げられる。湾口に比べ奥のほうが狭くなっている入り江では、波の高さがより高くなって被害が大きくなってしまう。

岩手県の海岸線沿いにある町は、津波によってどの町も大きな被害を被った。特に宮城県との県境に位置する陸前高田市は、総世帯の半分近くが全壊、もしくは大規模の半壊という甚大な被害を受けた。

2キロに渡って7万本の松が植えられていた高田松原は、一本を残し他はすべて津波がさらっていってしまった。町の中心部の建物は、ほとんど残っていない。


この陸前高田市で毎年8月7日に行われてきたのが<七夕まつり>。高田町の<うごく七夕>、気仙町の<けんか七夕>、小友町の<海上七夕>と、それぞれの町の夏を彩ってきた。

<うごく七夕>と<けんか七夕>は、青笹に願いごとを短冊に込めて吊るす七夕とは違い、高さ3メートル以上の大きな山車を作り、その山車にしだれ桜を模した「あざふ」や「ぼんぼり」などを飾り付ける。飾りを作るだけでも、一ヶ月以上を要していたという。山車には太鼓やお囃子も乗り、ときに風流に、ときに勇壮に音を鳴らし、町内を練り歩く。<けんか七夕>は、900年以上の歴史を有する祭りで、「天下の奇祭」と言われている。陸前高田の人たちにとっては、DNAに刻まれた祭り、それが山車によってうごく七夕に他ならない。


祭りとフェスの融合。

陸前高田市の中心部の高田町で行われている<うごく七夕>。「長砂」「大石」「鳴石」「森前」「駅前」「中央」「大町」「荒町」「松原」「川原」「沼田」「和田」という12の町内会でそれぞれ山車を作り、子供から大人まで総出で引き回し、美しさを競っていた。

けれど津波によって、ほとんどの町が山車や太鼓はもちろん、自分の住んでいた家までも流されてしまった。

残っていたのは、山沿いの「大石」と「鳴石」の山車だけ。瓦礫は撤去されたものの、建物が無くなってしまった「町」。人も、その町には住んでいない。そんな状況下にあって、<うごく七夕まつり>を開催しようと動き出したのが、「長砂」の福田紀雄さん、熊谷将之さんらのグループだった。


「私たちは生きている。もしかしたら神様に生かされたのかもしれない。生きているのだかから、何か人のためになることをやれ。そんなことを言われているような気がします。子どもたちの笑顔が見たい。祭りによって、みんなが集う時間を作りたい。そう思って祭りのために動き出したんです」と語るのは<うごく七夕まつり>実行委員会事務局長の福田紀雄さん。

福田さんや熊谷さんが、祭りの実現のために動き出したのは5月だったという。

「もちろん、反対する方も多かったですよ。すべて流されてしまって、町の機能がなくなってしまったところもありましたから。まだ行方不明の方もいるわけですからね。静かに旧盆を迎えよう。そういう意見も少なくありませんでした」と語るのは統括・企画部長の熊谷さん。


ふたりの熱意に応えるように、賛同者も増えていった。今までと同じような、町を歩く祭りにはならない。被災した今年ならではの祭りへ。毎年七夕祭りが行われていた7日を本祭、前日の6 日が前夜祭となった。前夜祭では、Moo-tala’s、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文、YAOAOなどがライブで出演。ボランティアのツイッターによる呼びかけで実現したライブもあった。YAOAOのAOは言う。「きっかけは、twitterでの呼びかけでした。いっぱいいると思うけど、自分も311以降『自分にできること』を探していたひとり。5月に石巻、仙台でライブをしたときに、少しでも何かの役に立てられたような気がして。その延長上に今回のお祭の話があったので参加希望を申し出ました」


生き残った「大石」と「鳴石」の山車のほか、陸前高田号という山車が新たに作られた。他の町内会の方々の想いも、その山車に集約していたのだろう。祭りの中心となった「長砂」は小さな山車を作った。

祭りの会場となったのは陸前高田小学校のグランド。少し高台にあり、海岸線から1キロくらいの場所にあるこの小学校の1階まで津波は押し寄せてきたという。校庭から海を臨んでも、8月上旬の祭り当日には「ほとんど何もない」状態だった。ラーメンや焼き鳥といった屋台が並び、輪投げのような遊びも会場内には用意されていた。一見すると、縁日のような祭りなのだけど、大きな違いは、それらがすべてボランティアで成り立っていたということ。有名店が並ぶラーメンもハンバーガーも、すべて無料で振る舞われた。陸前高田に住む方々の心の支援のために、みんなが集まった。そしてその中心には、被災した陸前高田の方々の想いが集結した<うごく七夕>の山車が4基あった。


「8月7日は、迎え火の日なんですね。亡くなってしまった方を鎮魂することによて、地域が繋がっていきます。毎年夏が近づいてくると、山車を作り、囃子の練習に力をこめていました。<うごく七夕>が地域みんなの絆を結んでいたんですね。津波によって家を失い、高田から離れていった人もいる。そんな方々とも結ばれる場所にしたいんです。町は瓦礫だらけになってしまい、多くの仲間も失ってしまったけど、絆は失っていない。子どもたちに夢を与え、亡くなった方を弔い、伝統を未来へ受け継いでいく。祭りの灯火を消さないこと。それは、高田に住む私たちにはとても大切なことだと思えたんです」と福田さん。


津波で流された何も無くなってしまった高田の中心地を歩いていた。駅があったであろう場所も、ホームらしきものがかすかに残っているのだけで、駅舎も線路もない。遠くで小さな山車を引いていた人たちがいた。「中央組」や「駅前」の方々だった。道路だけが残っている場所で、太鼓を叩き、囃子を鳴らす。代表らしき方がこんなことを喋っていた。「ご近所にいらした方で、今のお住まいの住所や連絡先を知っていたら、ぜひお知らせください」。

AOはライブの感想をこう言う。「山車に書いてあった『人は祭り無くして 明日の希望は見出せず』という言葉が印象的でした。人が集まること、会話すること、酒を飲むこと、すべて愛おしかった。人間のパワーは計り知れない」

町の絆を残すこと。未来へその絆を結ぶこと。<うごく七夕まつり>は、祭りが本来もっている過去と未来、人と人を結ぶ力に満ちていた。福田さんも熊谷さんも、「やって良かった」と口にした。祭りもフェスも、人と人、地球と人、過去と未来が結ばれることこそ重要なのだ。

真の復興への道は、みんなが結ばれることからはじまる。


Lj24

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