日々トリップ・リターン no.5 グアヴァ・ジャム 川内一作

トリップ(旅)

日々トリップ・リターン no.5 グアヴァ・ジャム 川内一作

去年の秋から葉山の一色海岸に住むことになった。

東京深夜放浪をタテマエにしている自分は葉山なんぞ気恥ずかしくて行けるかいとずっと思っていたし、今の自分があるのは深夜放浪のおかげだと酔っぱらうと常日頃から若い奴をつかまえてそう語っている。そんな自分が東京を捨てて葉山に住むのはカッコがつかぬ、若い頃に深夜のカスミ町あたりで飲んだくれて早死にした仲間たちに申しわけがたたぬ。オマエは死ぬまで東京の夜の底を徘徊しなければならないとココロのどこかでもうひとりの自分がそう言う。しかし葉山の海は自分が育った瀬戸内の海っぺりとよく似ている。磯が発達していて、しこいわし、メバル、カサゴといった小魚がうまい。自分もすでに還暦をまわったし遊び過ぎて早くに逝った東京ミッド・ナイト・ヒッピー達もそろそろケンゼンな暮らしを許してくれるだろう。ところが現実はそれほど甘くはなく週の大半はまだ東京の事務所に寝泊まりしている。自分の日常にある「新世界」も「クーリー」もいつも音楽があふれているから、葉山ではテレビも音楽もないサイレントな暮らしをしようと思っていたら、さすがに夏も近くなると音が欲しくなった。このところ聴いていなかったハワイ音楽を聴きたくなった。ギャビー・パヒヌイワレイ・カーネ、イズもいいし、ちょっとベクトル違うジャック・ジョンソンも、まァあれはあれでいいけれど、七〇年から八〇年代に人気があったピーター・ムーンの軽くてドライブ感のあるスラック・キーをやたら聴きたくなった。事務所に泊った朝、突然そう思い立ちピーターの昔のCDを数枚探し出した。有楽町のビック・カメラで安いラジカセを買って東京駅から横須賀線で葉山へ向かった。

梅雨のつかのま晴れ間がのぞいたその日、何もない葉山の家でまるで電化製品が初めて家に来た昭和の子供のように嬉嬉としてラジカセをセットした。

「グアヴァ・ジャム」を聴いた。

七〇年代ロコ達から絶大な人気を博したサンディ・マノアのベスト盤。しかしサンディ・マノアというのはバンドだったのかなァ、ピーターが舵取りをしてアルバムごとにメンバーが変わった。後のピーター・ムーン・バンドほどピーター色が強くない分、逆に自由な表現ができたのかもしれない。カジメロとピーターの絶妙なコラボは見事だ。コンテンポラリィという古い言葉も当時はカッコイイ意味で使われていて、あの時代ハワイ音楽だけでなくあらゆる民族的な音楽はトラディションとコンテンポラリィのはざまでエネルギーがたぎっていた。当時ワールド・ミュージックというカテゴリーはあったのだろうか。社会が物質を追い求めていた七〇年代、ネイティブな音楽はたぎったエネルギーの出口を見つけられずに、ハワイ音楽も沖縄もまだ水面下で発酵していた。そういう背景のなかでピーターはトラディションを愛しながらもコンテンポラリィな味付けをせざるをえなかった。あの時代があり今がある。今は映画「ファミリー・ツリー」でもレイ・カーネの岩のように頑丈なハワイ音楽がのっけからかかるいい時代なのである。しかし本当にネイティブというマイノリティが社会のなかで豊かに表現できるいい時代なのか、とうとつだが物質社会の頂きにある原発はどこへ行き着くのか、推進している人達にこういう音楽は必要ないんだろうか。ハワイや沖縄の音楽を聴くたびにいつも社会の二面性を感じる。自分にとってハワイ音楽は気持ちいいだけの音ではない。

一九八七年の初夏に自分はピーターの取材で初めてハワイへ行った。サンディ・マノアの後、ピーター・ムーン・バンドとして活動していた時代。あの時のライターは作家の駒沢敏器。若くして駒沢は三年前に他界した。無念である。
絵・エンドウソウメイ

葉山の家に初めて音がやってきた日、最初に聴いたアルバムが「グアヴァ・ジャム」だった。「カヴィカ」「オンリー・ユー」二〇数年前の記憶が鮮やかによみがえる。当時、ピーターが主催していた「カニカピラ」という野外フェスで自分は初めてイズを見た。「アケボノ、ムサシマル、コニシキ」や「オーヴァ・ザ・レインボウ」はまだ歌っていなかった。ノース・ショアに抜ける街道沿いにあった「トップ・ハット・バー」に時々ピーター・ムーン・バンドは出演していた。ピーターにマーティン・パヒヌイ、ボビー・ホール、フラガールは若きヘアラニ・ユーンと今思えば凄いメンバーだけど、いつも観客は二〇人くらいのゆるくて楽しいライブだった。宿泊したホテルは「ワイキキアン」というポリネシアスタイルのボロボロなコテージだった。その中の「タヒチ・ラナイ」というエキゾチックなバーでは夜毎にフラ・セッションが始まる。黄金のファルセット、ジェノア・ケアヴェもそのバーで何度か見かけた。ジェノアも六年前に亡くなっている。

ハワイは間口が広くて入り口をまちがえると買い物ばかりで終わってしまう。初めてハワイでピーターに会えて自分はラッキーだったかもしれない。おかげでその後気がついたらハワイ島のヒロで「メリー・モナーク・フェスティバル」を取材していた。日本で今ほどフラが発展していなかった時代のこと、フラなどまったく興味がなかった自分は激しい古典フラを見せられてまたまたびっくりしたのである。自分は流されるまま「ペレの誘惑」というフラの話しを書いた。いや、火の女神ペレに書かされたと言っていい。メリーモナークの取材中、ヒロではダウンタウンにあるヒロ・ホテルに泊まり、町はずれのダイアモンド・バーで毎日飲んだくれた。ワイキキアンもヒロホテルもタヒチアン・ラナイもダイアモンド・バーも今は無い。すべて風のように通り過ぎた。

葉山で久々「グアヴァ・ジャム」を聴き、四半世紀の前のことなど思い出し、ちょっとココロを熱くして夕方からふらっと出かけた。風早橋の近くで飲んで森戸海岸を歩いた。海岸のそばの小さなバーでライブをやっていた。若者ばかりで戸惑いながらもこっそり乱入したら誰かの追悼会らしくカウンターでオアシスの長老のマサカズがぐでんぐでんになったいた。マサカズの古い友人が亡くなったんだろうか。若いバンドが追悼にどんとの「波」を歌いますと言った。フラ・ガールが二人「波」を踊った。どんとがキラウエアで突然亡くなったのは自分が最後にヒロを訪れた一年前のことだ。そうか昼間「グアヴァ・ジャム」を聴いたオチはここにあった。

ペレの誘惑はまだ続いている。

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